伝承によればむかし平将門とともに兵を挙げた祖の平良文が窮地に陥ったとき、空から星が降ってきて、それに力を得た良文は戦に勝利したことにちなむという。とはいうものの、武神を崇める妙見信仰から生まれたものであろうが、千葉氏をはじめとする良文流の諸氏が挙って家紋に用いたこ これまで将門の胴塚や将門まつりをご紹介しました。終焉の地である坂東市のお話でしたが、他の場所にもありますよ!伝説には強さの秘密やお寺の縁起に関わるようなものが多いですね。しかもいくつかの町にわたっているので、整理しないと混乱しそうです。というわけで、今回はつくばみらい市の将門伝説をご紹介します。これを読むと将門が神(仏)がかっているイメージになると思います。でも、茨城の英雄なので許してくださいね。もくじインパクトある伝説からご紹介します。将門は初めから強い勢力を持っていませんでした。特に京都から戻ってきたばかりの頃は、まさか身内から狙われるとは思っていなかったでしょう。いたら帰ってこないですよね。そうした苦しい時期を救った童子(子供)がいたというものです。妙見とはお話だと妙見菩薩は十一面観音と同じように書かれてしまっていますが、妙見菩薩が十一面観音”像”の姿を借りているという意味です。小貝川の戦いは、仏の力が必要なほど厳しかったのでしょうか。奇跡的に生き延びたことを説明する伝説という気がしますね。それに正しい心の持ち主には仏も力を借してくれる、と伝えているのかもしれません。伝説の妙見菩薩のある禅福寺は公式Webサイトが無く、境内にも解説がありませんのでご紹介が難しいです。ただ、お堂は新しく、鮮やかな色をしています。九曜星もしっかり輝いていますね。周囲の道路が狭いだけあって、非常に静かな境内です。心穏やかにお参りできますよ♪先ほどご紹介した常総散策さんの記事は11年前に書かれました。そのときに紹介されていないので、近年できたものでしょう。平将門の墓がありました。写真だとわかりにくいですが『平新王将門公之霊』とあります。東京の首塚や坂東の胴塚とは別にできたのですね。せっかくゆかりがあるので案内が欲しいところです。平将門ははじめから連戦連勝ではありませんでした。特に京都からふるさと(いまの茨城県の辺り)に帰ってきたときは、苦しい状況が続きました。それを救ったのは妙見菩薩。将門は正しい心を持っていたので、ピンチになると妙見菩薩の化身(童子)が現れました。妙見菩薩は十一面観音としてつくばみらい市の禅福寺に祀られています。お近くを通られたときにでもお参りしてみてくださいね!この記事が気に入ったらフォローしようCATEGORY :安産祈願の板橋不動尊|由緒・御朱印・お犬不動尊伝説(つくばみらい市)いばらき観光マイスター。どこよりも楽しい『いばらきブログ』を追求中。あらゆるご当地ネタを集めて遊んでいます。観光地/おまつり/神社仏閣/グルメネタがメインです。愛用のカメラはPentax K-5Ⅱ。 情報提供やブログの不具合は「お問い合わせ」かTwitterからお願い致します。次の記事 wataいばらき観光マイスター。どこよりも楽しい『いばらきブログ』を追求中。あらゆるご当地ネタを集めて遊んでいます。観光地/おまつり/神社仏閣/グルメネタがメインです。愛用のカメラはPentax K-5Ⅱ。 情報提供やブログの不具合は「お問い合わせ」かTwitterからお願い致します。 © 2020 茨城見聞録 All rights reserved. しかし即位後わずか2か月たらずで死後は平将門の生年は父の以後「同年、源護によって出された告状によって朝廷から将門と平真樹に対する召喚命令が出て、将門らは平安京に赴いてこの時期には将門と敵対者の戦いはあくまでも私戦(豪族間の個人的ないざこざ)とみなされ、国家に対する反乱であるという認識は朝廷側にはなかったと考えられている。 将門の『扶桑略記』の将門および将門の乱を研究する際に基礎資料となるのは『将門記』であるが、現存写本は冒頭部分が欠落している。これを補う史料として原本を読み抄出したと思われる史料が『将門略記』と『歴代皇紀』である 平将門 たいらの ... 紋は九曜星。平将門をご祭神とした国王神社(坂東市)と同じ ; 九曜星は武士に人気。星は仏を意味し、守護神や妙見信仰につながる; 参考 谷和原 普門山「禅福寺」 常総散策. 平将門と九曜紋 平将門(903-940)といえば、日本史上の大反逆者。 平安時代半ばに関東全域を制圧し、「新皇」を名乗って独立政権を作りかけたところで、従兄弟の平貞盛と、奥州藤原氏の源流でもある藤原秀郷に滅ぼされてしまいます。 『平将門公ゆかりの地・・都内の神田明神や築土神社などは有名で、皆さんご存じだと思うので、今回は、私の地元である、我孫子市、柏市一帯を紹介します。この辺りは、旧下総...』千葉県旅行についてちびしろさんの旅行記です。 現在の千葉県「言い伝えでは討ち取られた首は京都の七条河原にさらされたが、何か月たっても眼を見開き、歯ぎしりしているかのようだったといわれている。ある時、とまた、将門のさらし首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいう。この将門の首に関連して、各地に首塚伝承が出来上がった。最も著名なのが昭和の終り、遅くとも「新皇」と名乗った史実に反し「日本将軍平親王」としての伝説が中世近世を通じて流布した背景に、坂東の分与・独立を意味する前者を排除し、軍事権門として朝廷と併存する道を選択した実線(縦)は実子、点線(横)は婚姻関係、点線(縦)は子孫または養子。 平将門を祖とする相馬家の代表家紋である。将門十一代の孫師常の時に、下総相馬郡を所有して、地名を名字とした。地名にある馬を紋と見立て、写実的に再現している。 梅紋. この頃、武蔵権守となった興世王は、新たに受領として赴任してきた武蔵国守なお、天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の三か国は親王が太守(正四位下相当の勅任の官)として治める親王任国となったが、この当時は既に太守は都にいて赴任せず、代理に介が長官として派遣されていた。当然ながら「坂東王国」であるなら朝廷の慣習を踏襲する必要は全く無く、常陸守や上総守を任命すべきであるが、何故か介を任命している。ここでの常陸、上総の介は慣習上の長官という意味か、新皇直轄という意味か、将門記の記載のとおり朝廷には二心がなかったという意味なのかは不明である将門謀反の報はただちに京都にもたらされ、また同時期に西国で同年1月中旬、関東では、将門が兵5000を率いて常陸国へ出陣して、平貞盛と維幾の子間もなく、貞盛が下野国この手痛い敗戦により追い詰められた将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負を仕掛けるために2月14日未申の刻(午後3時)、連合軍と将門の合戦がはじまった。北風が吹き荒れ、将門軍は風を負って矢戦を優位に展開し、連合軍を攻め立てた。貞盛方の中陣が奇襲をかけるも撃退され、貞盛・秀郷・為憲の軍は撃破され軍兵2900人が逃げ出し、わずかに精鋭300余を残すこととなってしまう。しかし勝ち誇った将門が自陣に引き返す途中、急に風向きが変わり南風になると、風を負って勢いを得た連合軍はここぞとばかりに反撃に転じた。将門は自ら馬を駆って陣頭に立ち奮戦するが、風のように駿足を飛ばしていた馬の歩みが乱れ、将門も武勇の手だてを失い、飛んできた矢が将門の額に命中し、あえなく討死したその首は平安京へ運ばれ、晒し首となる。この将門の乱は、ほぼ同時期に歴史学者の近世になると東国政権という意味から、初めて坂東を横領した将門に関心が寄せられた。神田明神が江戸総鎮守となり、将門は歌舞伎や浮世絵の題材として取り上げられた。将門伝説は文芸化と共に民衆の支持を受けたといえる。その多くが将門を誇張し怨霊として描いており、明治期には将門は天皇に逆らった賊とされ、政府の命により神田明神などの神社の祭神から外されたり史蹟が破壊されたりした。その結果多くの史料が失われたが、一方で民衆の信仰は厚く、排斥を徹底させることはできなかった戦後、天皇制に関する研究が解禁され国家の発展段階が理論的に議論されると、将門の乱を中世封建社会への前段階とみなす説が現れるが、のちにこの説は勢いを失う将門伝説の研究者である千葉県このため、将門とその家来の子孫は、1070年以上たった今でも成田山新勝寺へは参詣しないという。また、生い立ちにもある千葉県尚、これらはあくまで民間伝承であり、神田明神側が出版した本では両方を参拝すると祟りが起こるということはないと明確に否定している。