現役時代から、付き合い程度でしかゴルフをやらず、ゴルフ場にもほとんど顔を出さなかった。1975年オフの球団納会ゴルフにいて、江本が「なぜ監督がいるのか?」と驚いていたが、江本への阪神へのトレードを通告するためだけに来ていた。この時に発した言葉は「お前、旅に出てこいや」だった。現役を引退してからは、金輪際体を酷使することはしないことを誓ったため、一切運動はしていない。カメやワニが長生きするのは動かないからということを真似たことだと語っている。故に70歳を過ぎても健康且つ長生きする秘訣と語っている。 選手としてオールスターゲーム通算21回出場、48安打の最多記録を持ち、最年長出場選手(1980年、45歳)でもあるが、オールスターでは打撃不振で知られた。しかし1972年の2010年5月10日、2014年10月16日、解離性大動脈瘤で1ヶ月入院したことを明かした。 自分から野球をとってしまったら何も残らないという意味で、自ら「野村克也-野球=ゼロ」と語っている。夫人も「主人は野球以外は何もできない人」とテレビ出演時に言ったことがある。 NHKスペシャル 令和家族 実験ドキュメンタリー . 昨年末に、nhkスペシャルの『令和家族 幸せ探す人たち』という番組で、元プロ野球監督の野村克也さんと対談した。実はその昔、私は南海ホークスのファンで野村さんには現役時代から憧れていたのだ。 幼少時代からの極貧生活の反動で、一流選手になってからは金遣いが非常に荒かった。超一流ブランドの衣服、時計、装飾品を毎週のように買い込み、スーツは250着、ネクタイはその倍をいっていたという。沙知代夫人と初めて出会ったときも沙知代夫人と再婚してからは、夫人が一切現預金を管理しているため、現金を持たせてもらえず、クレジットカードだけ持たされていた。ある日、一流ブランド店に行った時、服や宝飾品、時計を眺めていると、店員に言葉巧みに買わされてしまった。そこで、「監督、(クレジットの明細書に)サインして」と言われ、かつクレジットカードの仕組みが分からず、「カードを見せてサインしただけで、なんで商品をくれるんだろう」と思っていたという。おまけに、クレジット明細が沙知代夫人の元に届くことを知らず、いつ、どこで、何を、いくら買ったかが全てバレてしまい、夫人から追及され、「オレの後をつけて来てるやろ、嫌らしい女やな」と言ったという。キャッシュカードで現金を引き出す際に暗証番号が必要であることも知らず、「選手がやるとお金がジャージャー出てくるのに、自分がやるとなぜ出来ないのが不思議だった』という。 ャンプー。サラつや髪を取り戻して。Copyright © 1997-2020 Excite Japan Co., LTD. All Rights Reserved. 『野村克也さんをしのんで~名捕手・名監督の人生哲学』は、当時低迷を続けていた阪神タイガースの監督として再建に挑む姿を追ったnhkスペシャル。ヤクルトで野村さんの薫陶を受けた古田敦也さんが出演する。 ≪関連記事≫ また、足は遅い方だったが、通算117盗塁を記録。そのうちホームスチールが7回、三盗は2回ある。中学生までは足が速かったと語るが、誰も信用してくれないという上述のような成績を残せた大きな理由に、試合展開や相手選手の心理を読む能力に長けていたことが挙げられる。当時の鶴岡監督率いる南海は、他球団に先駆けてデータ収集・活用のための体制を整えており、実際のデータ収集を担当した野村がプロ生活を始めた当時、捕手の地位は打者としての役割を求められないばかりか大柄で、ミットの薄い部分でキャッチングして大きな音を出すことで投手の気分を良くさせる程度しか求められていないなど、現在とは比べ物にならないほど低いものであった。その中で野村は自身の打撃成績の向上のため蔭山和夫や尾張久次とスコアの研究を重ねる過程で、スコアの研究をリードに生かすことで効率よく打者を抑えることを研究するようになっていった。 現在放送中の連続テレビ小説「エール」のモデルは、古関裕而さん。阪神タイガースの歌や、NHKスポーツ番組のテーマ曲など、昭和を代表する作曲家として、生涯5000曲もの作品を世に送り出した。ご覧いただく番組は、「ビッグショー 古関裕而 青春 涙 哀愁」(1975年)。名曲のメロディ―とともに、古関さん自身が作品への思いや、曲が生まれた時代背景を語っている。古関裕而とは、どんな人物だったのか語り合う。時代を映し出した作品群は、今も色あせることなく、現代を生きる私たちに、新鮮なメッセージを送ってくれます。時代を見据えてきた数々の番組を『あの日 あのとき あの番組~NHKアーカイブス~』はお伝えしていきます。 2006年は昨年続き最下位に終わり、飯田徳治、別当薫、根本陸夫、2006年11月23日に開催された楽天のファン感謝祭において、「来年は私の野球人生のすべてを賭ける。Aクラスに入れないようなら辞めて次の人に譲ります。いくら東北のファンが粘り強いと言っても、(新規参入から)3年連続で裏切ったら許してくれないでしょう」と、来季の成績に自分の進退を賭ける旨の決意表明をした。このことは球団側も聞かされておらず、2007年シーズンは新人を含め若手選手を積極的に起用する場面が目立った。投手陣では2008年6月29日のソフトバンク戦で球団史上最多20安打の猛攻で15点を奪い大勝。この日は73歳の誕生日で、7年ぶりの誕生日白星となり、選手達が用意した帽子型のケーキで祝福された。7月5日、対西武戦(同年7月15日、日本ハム(東京ドーム)戦で監督として通算3,000試合出場を達成、選手としても通算3,017試合に出場しており、日米ともに前例のない、選手・監督両方での通算3,000試合出場を達成した。この年は序盤に球団初の単独首位になるものの交流戦後半から失速、かろうじて最終戦で勝利して最下位脱出をしたものの5位に終わる。2007年とはうって変わり、得失点差はプラスとなり、エース岩隈久志が21勝を挙げて復活するなど戦力の整備は進んだものの、順位には反映されなかった。同年シーズンを以って3年契約が終了。去就が注目されたが、球団から戦力の整備を評価され、1年契約での続投要請を受ける。野村自身もそれを受諾し、2009年も引き続き楽天を指揮することになったが、2009年シーズンは開幕から投手陣を中心に怪我人が続出した。特にドラフトで獲得した新人投手全員がオープン戦前に故障してしまい、レギュラーシーズンが開幕するとチーム初の開幕4連勝で好スタートを見せ4月を首位で終える。しかし、怪我人が続出した5月以降は調子を落とし、交流戦では最大6連敗を喫し、7月には3年ぶりの8連敗、一時は5位にまで後退するが、8月に入り最大6連勝を含め通算17勝7敗。9月以降も好調を維持し、9月12日のソフトバンク戦(翌々日・11日にKスタ宮城で行われたレギュラーシーズン最終戦(ソフトバンク戦)終了後、球団から契約を更新しない旨を告げられ、同年シーズン限りでの退任が決定した。16日に開幕したCS第1ステージではソフトバンクに2連勝し第2ステージ進出を決めたが、21日開幕の第2ステージでは日本ハムに1勝4敗を喫し、日本シリーズ出場はならず。日本ハムのCS優勝セレモニーの後、楽天と日本ハム両軍の選手・コーチに胴上げされた。11月2日、楽天の新監督に退任決定の際に「人生に疲れた。クビと言われ、どっと疲れが出てきた」と語った。さらに「ユニホーム姿もいよいよ秒読みだが、やっぱりオレは『元南海』がいい」とも口にした。2009年が、ユニフォームを着た指揮官として最後の年となった。