・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・©2020 Weblio 結果として、アムンセン隊のコースは比較的平坦なコースでデポの設置も滞り無く行えるなど、本来の位置にデポを設置できなかったスコット隊と対照的な結果となった。しかし、スタート時点ではその事実は判明しておらず、コースの状況次第では大回りもしくは探検中止を余儀なくされていたか、スコット隊と同じく何らかのアクシデントにより遭難していた可能性すらあった。このため、単純に距離の長短をもってスコット隊が不利だったと判断できないという意見もある。 ロバート・ファルコン・スコット(Robert Falcon Scott, 1868年6月6日 - 1912年3月29日)は、イギリスの海軍軍人、探検家。南極探検家として知られ、1912年に南極点到達を果たすが、帰途遭難し、死亡した。 前回1901年の南極探検の折、スコットは訓練不足の犬が使い物にならなかった当初、南極点到達隊は4人の予定で資材・食料などを計画していたが、スコット自身の判断で土壇場で5人にしたことも影響を与えたのは否めない。1人の増加とはいえ、4人用テントでの十分な休息は困難となり、荷物の増加に伴い移動時間も増大するなど、探検の末期にはその悪影響が甚大であった。これは、1人でも多くの隊員に南極点到達の栄誉を分け与えたいというスコットの情によるものと考えられているが真相は不明である。なお、最終的にはスコット隊と同数(ただし、アムンセンの場合は8人から減らした結果の5人である)で南極点を目指したアムンセンは、資材の重量増より隊員の休息を優先し、3人用のテントをカスタマイズして5人が十分休息できるテントを作っていた。 今日からできるインドア趣味情報スコット探検隊の旅は失敗だったのか関連キーワードスポンサースポンサースポンサースポンサー

両者の防寒服は、バーバリー社が開発したギャバジンをベースにしたものであるが、アムンセン隊の防寒服はイヌイットの伝統に基づきアザラシの毛皮などで作られたのに比べ、スコット隊の服は牛革を重ねた形状の防寒服であった。この素材の差が致命傷となり、スコット隊の防寒服は汗などの体から出る水蒸気を吸い込み氷結した結果、次第に体温は奪われ、最後は保温の役目をほとんど果たしていなかったとも考えられている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/08 03:38 UTC 版)スコット隊がロアール・アムンセン隊に敗れ、遭難死した理由については、その当時から数多くの者が分析を行っている。中でも、スコット率いる南極探検隊に参加し、スコットたちの捜索隊にも参加したアスプレイ・チェリー=ガラードらは、スコットがアムンセンに遅れをとったことや遭難死に至ったその敗因について、以下のような分析を残している。

西堀は、『仕事というものは自らが強い「やる気」をもってやるのでなければ「細心の注意で」など決してできるものではない』と自らの南極体験から指摘している。さらに、アムンセンはリーダー自らが常に平常心を持って決断し行動できるよう、「行ってみて、無理ならば引き返せばいい」というような楽観的態度を心がけた。一方スコットの場合は、極点到達がアムンセンに先を越されたときに帰途の不安をのぞかせているが、リーダーが少しでも不安顔をのぞかせるとそれが隊員にも伝播し、隊員の不安をもつのらせ、平常心を失わせ、重要なときに物事の判断を誤らせることになったと指摘している。 この他にも、アムンセンは何よりも、スコットとアムンセンは南極探検の動機が全く異なっていた。アムンセンは子供の頃から純粋に極地探検を人生の目標としており、南極探検はあくまでもアムンセンの個人的な動機によるもので、探検の途中で重大な危機に遭遇した場合にはアムンセン自身の判断で引き返せる余地もあった。これに対し、スコットは両者の防寒服は、南極の最深部の気候はスコットの想定を遥かに超えており、1トンの荷物を曳ける大型馬に至ってはデポ(前進基地)を設置するための往路の段階で次々に喪失しているなど、彼の用意した装備は南極の気候に耐えられなかった。犬ぞりはスコット隊も用いていたが、小規模(アムンセンはスコットの3倍以上の116頭を投入)かつ極めて限定的な補助用途であった。 スコットは南極点の方向へ最南端到達記録の更新を目指すパーティに自分自身とウィルソンのほかにシャクルトンを加えた。スコットにとって最南端記録の更新はとても重要であったが、この踏破行は南極点を目指す真剣な挑戦ではなかった。そしてシャクルトンを加えたことは高い個人的な信頼を表していた 。 ロバート・スコット. 南極点一番乗りを目指す「世紀の大レース」は、 犬ゾリを駆使したアムンセン隊の一方的な勝利に終わった。しかし、勝利を知り得るのは先に南極点に到着した者だけであり、スコットらは未だ英国隊の勝利を疑うことなく、ひたすらソリを曳き続けている。南極点への最後の300キロ。そこへはスコットを含む4名だけが行くことになっていた。 スコット隊のルートは約1,500kmと若干長距離であるものの、大部分がシャクルトンなどこれまで数次のイギリス探検隊により踏破済みのルートで、地形やコースコンディションなどはほぼ把握されており、未知の部分は全体の約1割の155kmに過ぎず、リスクは比較的低いと見られていた。一方、アムンセン隊が選択したルートは直線距離こそ若干短いものの、約1,150kmの全行程が未踏破であるどころかベースキャンプを設置する上陸地点からしても、誰も上陸したことがなかったという文字通り手探り状態からのスタートであった。 純粋に南極点到達だけを目指したアムンセン隊と違い、スコット隊は学術的に大きな価値を持つもの(南極がかつてまず、アムンセンは少年の頃から極地探検家(当初は北極だった)になることを夢見て、必要となる準備を進めてきた。一方のスコットは、南極探検の計画者である王立地理学協会長のまた、アムンセンは隊員の自主性を尊重するチームワークで運営したことに対し、スコットはイギリス海軍式の階級制度を取り入れた運営だった点も指摘している。アムンセンの場合は、隊員に装備品の改良の提案を募集するなどし、隊員全員が参画意識を持って自主的に一つの目的に向かえるよう配慮した。一方スコットの場合は、階級制度による上意下達的な隊の運営が隊員の士気にも影響し、細心の注意を払うことができなかったものと推測している。 スコットの第一回南極探検は極点到達失敗 1837年から43年にかけて、フランス、アメリカ、イギリスの各政府は、南極大陸に探検隊を派遣しました。 固有名詞の分類辞書ショートカットカテゴリ一覧すべての辞書の索引Weblioのサービス