巻子本「桂本万葉集」 (8寸8分8厘×27尺9寸4分 金銀泥下絵万葉集(巻第四残巻) (両面加工)昭和初期の模写本 さて、現存最古の歌集である万葉集。全20巻、歌数約4500首もの膨大な歌集である。 を紡いで誕生したのです。言端から言葉に変化したのは、「葉」はあらゆる豊かさを. ‚ê‚®‚³j ‹IŠÑ”V@@wŒãïWxiŽŒ‘—ªj @@wEˆâWxiŽŒ‘—ªj ‚æ‚ݐl‚µ‚炸@@wŒãEˆâWxiZ‹g‚ÉŽQ‚è‚Ä‚æ‚ÝŽ˜‚肯‚éj @@w‹à—tWxi—ö‰Ì‚æ‚Ý‚¯‚é‚Æ‚±‚ë‚É‚Ä‚æ‚ß‚éj Œ¹r—Š@@wEˆâ‹ð‘xi—öj “¡Œ´’è‰Æ@@w•v–ؘa‰Ì´xi‰ÃŒ³Œ³”N•SŽñA•sˆ§—öj —âòˆ×‘Š@@wˆŸžÅWxiØ—öj ”ò’¹ˆä‰ëe@@w”ӉԏWxi—ö‚̉̂Ƃāj @@w‹u—Ë’nx@ŒE“c‹ó•ä@@w—öˆßx@ŽRì“o”üŽq@@wÔŒõx@Ö“¡–΋g@@w‚ ‚炽‚܁x@Ö“¡–΋g@@wH“V—Ú—žx@Ö“¡Žj@@w‹Ê菨’ÁÎx@ŽR’†’qŒbŽqŒöŠJ“ú:•½¬22”N08ŒŽ05“ú 『萬葉集』(万葉集)五の巻、「梅花謌卅二首」并序より。目録では「太宰師大伴卿宅宴梅花謌卅二首并序」。大伴卿の家で催された「梅花の宴」の参加者が詠んだ「梅花歌三十二首」の題詞に序文を兼ね合わせたものです。1941年(昭和16年)の紀州本複写を底本としているため、他資料とは異なる箇所があります。紀州本複写では「于時初春令氣淑風和」としていますが、「于時初春令月氣淑風和」だと考えられます。「太宰 … 万葉集で登場する「言羽」も そのように軽い意味をもちます。 「言」の後ろに「羽」をつけることで 軽々しいイメージをあえて作りだして 現実には影響しない口先だけの言葉を表現。 そういった感じの気遣いの流れが 「ことば」の由来になったと考えると 1.万葉集. 忘れ草我が下紐に付けたれど 醜 (しこ) の 醜草 (しこぐさ) 言 (こと) にしありけり.

何かの発表直後にどこぞで指摘したことですが、いちおうこちらにも。ページコンテンツ『萬葉集』(万葉集)五の巻、「梅花謌卅二首」并序より。雑謌1941年(昭和16年)の紀州本複写を底本としているため、他資料とは異なる箇所があります。追記。序の書き下し文を見てみましょう。雑歌天平二年正月十三日、帥の老(おきな)の宅(いへ)に萃(あつ)まるは、宴會を申ぶるなり。時に初春の令(よ)き月にして、氣淑く風和(なご)み、梅は披く、鏡の前の粉を、蘭(らに)は薫らす、珮の後の香を。加以(しかのみにあらず)曙の嶺に雲移り、松羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥縠(となみ)に封(こ)められて林に迷ふ。庭には新(あらた)しき蝶舞ひ、空には故(もと)つ雁歸る。ここに天を蓋にし、地を座(しきゐ)にし、膝を促(ちかづ)け觴を飛ばす。言を一室の裏に忘れ、衿(えり)を煙霞の外に開き、淡然としてみづから放(ほしきまま)に、快然としてみづから足る。若し翰苑にあらずは、何を以ちてか情を攄(の)べむ。詩に落梅の篇を紀せり。古と今をそれ何ぞ異ならむ。宜(うべ)園の梅を賦(よ)みて聊短詠を成すべし。『新定萬葉集』上巻 有精堂版一例として、1948年(昭和23年)の『新定萬葉集』(新定万葉集)による書き下し文と註釈を掲載しておきます。次に、江戸中期~後期の国学者、橘千蔭(加藤千蔭)の『萬葉集略解』(万葉集略解)による註釈を紹介しておきます。梅花歌三十二首幷序天平二年正月十三日。萃帥老は大伴卿を言ふ。此序は憶良の作れるならんと契沖言へり。さも有るべし。鏡前之粉は、宋武帝の女壽陽公主の額に梅花落ちたりしが、拂へども去らざりしより、梅花粧と言ふ時起これりと言へり。此に由りて言へるなり。珮後之香は屈原が事に由りて言へり。傾蓋は松を偃蓋など言ふ事、六朝以降の詩に多し。對穀は宋玉神女賦に、動於劉伶酒德頌に、幕1926年(大正15年)の日本古典全集刊行會版(日本古典全集刊行会版)から転載しています。大宰帥として九州の大宰府(現代の福岡県太宰府市)にいた大伴旅人宅で催された(とされる)梅花の宴。『萬葉集略解』は「鏡前之粉」以降については分かりやすく述べていますが、それより前、「于時初春令月氣淑風和」については触れていません。「梅花歌三十二首」并序『歸田賦』要点のみ知りたいという方のために先に記しておきます。文選巻八1921年(大正10年)の国民文庫刊行会版から転載しています。以下は『国譯漢文大成』(国訳漢文大成)による書き下し文(と註釈)。歸田(きでん)の賦(ふ)都邑(といふ)に遊(あそ)んで以(もつ)て永久(えいきう)なるも、明略(めいりやく)を以(もつ)て時(とき)を佐(たす)くるなく、徒(いたづら)に川(かは)に臨(のぞ)んで魚(うを)を羡(うらや)み、河(か)の淸(す)まんことを俟(ま)てども未(いま)だ期(き)あらず。【一】 歸田。張衡仕へて志を得ず、田里に歸らんと欲す。因つて此賦を作る。蔡子(さいし)の慷慨(かうがい)に感(かん)じ、唐生(たうせい)に從(したが)つて以(もつ)て疑(うたがひ)を決(けつ)す。【五】 蔡子。史記に蔡澤諸侯ニ遊學シテ不遇ナリ。唐擧ニ從ツテ相セシム、擧熟視シテ曰ク、先生ハ偈鼻戴肩魋頤蹙頞ナリ、吾聞ク聖人ハ相セズト殆ド先生カト、澤舉ノ戲ルルヲ知リ乃チ曰ク、富貴ハ吾ガ自ラ取ル所ナリ、吾ガ知ラザル所ノモノハ壽ナリ、願クハ之ヲ聞カント、舉曰ク先生ノ壽ハ今ヨリ以往四十三歳ナリト、澤笑ツテ之ニ謝ス、後范睢ニ代リテ秦ノ相トナルとあり。慷慨は志を得ずして憤ること。諒(まこと)に天道(てんだう)の微昧(びまい)なる、漁父(ぎよほ)を追(お)ひて以(もつ)て嬉(たのしみ)を同(おなじ)うし、埃塵(あいぢん)を超(こ)えて以(もつ)て遐(とほ)く逝(ゆ)き、世事(せいじ)と長(なが)く辭(じ)す。【六】 埃塵。塵世なり。是(ここ)に於(おい)て仲春(ちうしゆん)令月(れいげつ)、時(とき)和(わ)し氣(き)淸(す)み、原隰(げんしふ)鬱茂(うつも)し、百草(さふ)滋榮(じえい)し、王睢(わうしよ)翼(つばさ)を鼓(こ)し、倉庚(さうかう)哀(かなし)み鳴(な)き、頸(くび)を交(まじ)へて頡頏(けつかう)し、關關(くわんくわん)嚶嚶(あうあう)たり。【七】 令月。令は善なり。焉(ここ)に於(おい)て逍遥(せうえう)して聊(いささ)か以(もつ)て、情(じやう)を娛(たのし)ましむ。爾(しか)して乃(すなは)ち龍(りよう)のごとく方澤(はうたく)に吟(ぎん)じ、虎(とら)のごとく山丘(さんきう)に嘯(うそぶ)き、仰(あふ)いで繊繳(せんしやく)を飛(と)ばし、俯(ふ)して長流(ちやうりう)に釣(つ)る。【一四】 方澤。大澤なり。矢(や)に觸(ふ)れて斃(たふ)れ、餌(ゑ)を貪(むさぼ)りて鉤(つりばり)を呑(の)む。雲間(うんかん)の逸禽(いつきん)を落(おと)し、淵沈(えんちん)の魦鰡(さりう)を懸(か)く。【一六】 逸禽。飛鳥なり。時(とき)に曜靈(えうれい)景(かげ)を俄(かたむ)け、繼(つ)ぐに望舒(ばうじよ)を以(もつ)てす。【一八】 曜靈。日なり。盤遊(はんいう)の至樂(しらく)を極(きは)め、日夕(ひゆふべ)なりと雖(いへど)も劬(つか)るを忘(わす)る。【二0】 盤遊。遊樂なり。老氏(らうし)の遺誡(ゐかい)に感(かん)じ、將(まさ)に駕(が)を蓬蘆(ほうろ)に廻(めぐ)らさんとす。【二一】 老氏。老子に馳騁田獵ハ人心ヲシテ發狂セシムとあり五絃(ごげん)の玅指(めうし)を彈(だん)じ、周孔(しうこう)の圖書(としよ)を詠(えい)じ、翰墨(かんばく)を揮(ふる)ひて以(もつ)て藻(さふ)を奮(ふる)ひ、三皇(さんくわう)の軌模(きぼ)を陳(の)ぶ。【二三】 五絃。琴なり。苟(いやしく)も心(こころ)を域外(よくぐわい)に縱(ほしいまま)にせば、安(いづく)んぞ榮辱(えいじよく)の如(ゆ)く所(ところ)を知(し)らんや。少し長いのでトグルスイッチ開閉式にしておきます。以下は大正時代当時の人にとっての分かりやすい意訳。【大意】作者の張衡(張平子)は後漢代の人。また、『萬葉集』に道教的な思想の影響が見えるのも後世の研究で指摘されるところで、本記事でも最初のほうで序の書き下し文を引いた『新定萬葉集』の著者である武田祐吉による、『國文學研究 萬葉集篇』に収められた大伴旅人論が分かりやすいです(参考リンク 張衡の『歸田賦』や、とくに高名な『思玄賦』、あるいは『萬葉集略解』でも名前が挙がる『西京賦』(『東京賦』との二篇で『二京賦』)といった作品は、南朝梁(南北朝時代)の昭明太子(蕭統)が編纂したとされる詩文集『文選』に収められました。歸田賦と萬葉集に見る令和。梅花にメジロさん。京都の野鳥。京都御苑にて。『歸田賦』における春の情景描写じたい、『詩經』(詩経)の影響を受けているのではないかと先人により指摘されています(『國風』(国風)のうち『豳風』の一篇に「春日載陽 有鳴倉庚」と見えます)。どちらかといえば私の興味のメインはこちら。宇治 朝日山と大吉山ハイク 名勝「宇治山」 県祭とユーフォ当サイトではめったに『萬葉集』(万葉集)は取り上げませんが、『萬葉集』に見える「今木の嶺」の話を少しだけ上の記事で。おまけの小ネタ。ちょっとした話の種に。終始第九『素問』と『靈樞經』(霊枢)を合わせて『黃帝內經』(黄帝内経)と称します。甘草粉蜜湯方『金匱要畧』(金匱要略)は後漢代の古典医学書(の一部)ですが、やはり散逸しており、後世の再編とされます。追記。コメントをいただいたので少し追記。数が多いこともあり、どなたに限らず、本記事に対するコメントは非公開としていますが、すべて目を通していますのでご心配なく。南朝斉の江謐なる人の字が令和です。江謐字令和濟陽考城人也後略しますが、『南齊書』(南斉書)に比較的長めの伝があり、字を「令和」としています。虐宋代に成立した『太平御覧』では字を「合和」としていますが、元引きの『南齊書』で「令和」としていますので、そちらが正しいのでしょう。「梅披鏡前之粉」についてのメモを残す。人日梅梅花點額粧壽陽公主(南朝宋の武帝長女の劉興弟とする)の額の上に落ちてきた梅の花を払っても取れなかった、それを見た宮女たちがこぞって真似をした、といった「梅花粧」の故事が中国では知られ、江戸時代の日本でも広まっていたようであるが、おそらく伝説的要素・創作的要素が強いと考えられる。壽陽公主と梅花粧の話は北宋代初期(この宋は趙宋)に成立した『太平御覧』の「巻三十 時序部十五 人日条」に見え、『雜五行書』(雑五行書)に曰くとしている。壽陽公主の話は別として、江戸時代の国学者たちは「梅披鏡前之粉」を花鈿に影響を受けた表現だと考えていたようだ。壽陽公主を「花朝節」(花神節)における十二花神の「正月花神」「梅花花神」に見立てることもある。「蘭薫珮後之香」についてのメモを残す。『萬葉集略解』では「蘭薫珮後之香」について、楚の屈原の名前のみを挙げている。離騷紛吾既有此内美兮 又重之以脩能『楚辭』巻第一楚の詩を集めた詩集『楚辭』(楚辞)に収録、屈原の作とされる『離騷』における有名な自画自賛パート。『萬葉集』には「蘭」の字を直接的に使用して詠んだ歌が一首も存在しない。『離騷』の当該部分をどう考えるかは多くの説があるようで、中国における註釈に目を通すと、いずれもかなりの長文。『楚辭』における『九歌』の「禮魂」(礼魂)で、「春蘭兮秋菊 長無絶兮終古」と見え、鎮魂の祭礼について、「春には蘭があり、秋には菊がある」「これからも長く絶えることなく続く」としている(植物・季節のサイクルとお供えする人の心の永遠性を歌っている)。「蘭薫珮後之香」の「蘭」を、いわゆるラン科植物と見立てるなら、カンラン(寒蘭)の花期は梅より早く、シュンラン(春蘭)の花期は梅よりやや遅く、いずれも花期が旧暦の正月、初春と合わないため、実際に咲いていたわけではなく、なにかしらの地生ランを描写のイメージとして引き合いに出しているだけとする。また、「紉秋蘭以爲佩」の「佩」も「蘭薫珮後之香」の「珮」も、いずれも身に帯びるの意と解釈する人もいれば、後者は帯から吊るす玉珮(玉佩)と解釈する人もいる、ようだ。フジバカマ(の生薬)を中国語風に書くと「佩蘭」であり、中国の古典本草書『神農本草經』(神農本草経)では「蘭草」としている。蘭薫『萬葉集攷證』(万葉集考証)でも同様の指摘がなされ、「珮」は「佩」と同字であるとしている。『本草和名』では「草」の「蘭草」とは別に、「菜」で「蘭蒚草」の名前が見え、これの和名を「阿良々岐」(あららぎ)としている。滋賀県 春の花 シュンランとイチリンソウ 2015年4月過去に何度も撮影し、記事でも紹介しているが、平地寄りの地で野生するシュンランは、同じ標高・夜間気温であれば基本的に桜と花期が重なりやすく、遅咲きの個体は別として、一般的な梅の花期とはほぼ重ならず、奈良時代の「正月」「初春」に満開となり、花薫るとは考えられない。「蘭」「藤袴」の話題は、昔、まったく別の場所でも取り上げており、私にとっては思い出深い「序」でもある。Facebookでもコメントできます。©Copyright 2005-2020