・80年代最後の作品。 ・「ツツ」に続き、今作もマーカス・ミラーがほとんどの曲を作曲している。 ・マイルスとの共演はなかったが、1987年に亡くなった天才ベーシスト・ジャコ・パストリアスに捧げた、マーカス・ミラー作曲の"Mr. Pastorius"という曲がある。 カケレコでも『ロックファンが聴くべきジャズ定番』としてマイルス・デイビスの作品を紹介していますが、海外サイトTEAMROCK COMにて、米スラッシュ・メタル・バンドTestamentのギタリストAlex Skolnickが選んだマイルス・デイビスの曲10選を発表していますので、ご紹介いたしましょう。 JAZZという音楽の魅力を中心に (マイルス・デューイ・デイビス3世) 1926年5月26日ー1991年9月28日(65歳没) ☆☆☆☆☆☆☆☆. マイルス・デイビスは時代ごとに音楽性を変えており、代表作『Kind of Blue』だけしか聴かないのはもったいないことです。 ジャズの世界を超えて活躍し、多くの名盤を残したマイルス・デイビスの全作品のうち、海外で特に評価の高い名盤を 10 枚紹介します。 1位:『Kind of Blue(カインド・オブ・ブルー)』Miles Davis(マイルス・デイビス) 1959年発表。言わずと知れたジャズの名盤であり、モード・ジャズを代表する作品。全年代・全ジャンルの名盤ランキングでも36位にランクインしています。 マイルス・デューイ・デイヴィス三世(Miles Dewey Davis III、1926年 5月26日 - 1991年 9月28日)は、アメリカ合衆国出身のジャズ トランペット奏者、作曲家、編曲家。 アルバム『ウォーキン』『カインド・オブ・ブルー』『ビッチェズ・ブリュー』など多くの作品で知られている。 私が、そのようなはっきりブラックミュージックと分かる演奏をするマイルスが好きということもあります。●コーネル・デュプリーのギターと、ハーモニカが印象的な〈Red China Blues〉を聴いてみましょう。45秒あたりからのギターみたいな音は、マイルスの ●マイルスが考えていた「新しい自分の音楽」をこの時点で一旦集大成したアルバムのように感じます。 2枚組のマイルス叙事詩。●「ブラックミュージックをやるマイルスが好き」と書きましたが、そういう耳で聞くと、2枚目の5曲がたまりません!どの曲もFunkでかっこいい曲ばかりです。(音源リンクはやめておきます)●しかしこのアルバムの、イラストのジャケットは妙な先入観を与えそうで余り感心できません。 これならこれはもうマイケルジャクソンの「ジョン・スコフィールド(el.g),ダリル・ジョーンズ(el.b),アル・フォスターやヴィンス・ウィルバーン(drums) ,ボブ・バーグ(ソプラノ&テナーサックス)がポップ・ミュージックをやるとこうなるのだ!というような音楽をやっています。●ここではやはりその後もたびたび演奏されることになった〈Time After Time〉を聴きましょう。 マイルスのバンドのエレクトリック化が初めて完成した作品。私がイイと思った最初のエレクトリック・マイルスアルバムです。ジョン・マクラフリンのギター、ハンコック、コリアのエレピにザヴィヌルのオルガンでの3キーボード。デイヴ・ホランドのエレキ・ベース。凄いメンバーです。このメンバーで電化音楽をやるとこうなるのだ!このアルバムは冒頭で紹介しましたので、省略します。繰り返しになりますが、25~26分の2曲しか入ってないのですが、異なるメンバーで演奏される2曲がどちらもカッコ良くて、しびれます。そして、このころのジョン・マクラフリンは最高だったと思います。●6位を選ぶなら〈それと5年間の休止からカムバックした時の〈The Man With A Horn〉 とかも入れたかったです。●以上エレクトリック・マイルスでした。私が所有する●やはりアルバムの統一感、完成度でそうなったと思います。と言ってもライブが嫌いな訳ではありません。その白熱、臨場感、聴衆の拍手や歓声を聴くことも大好きです。 マイルス・デイビス、幻の未発表作『Rubberband』が発売に

マイルス・デイビスは時代ごとに音楽性を変えており、代表作『Kind of Blue』だけしか聴かないのはもったいないことです。 ジャズの世界を超えて活躍し、多くの名盤を残したマイルス・デイビスの全作品のうち、海外で特に評価の高い名盤を 10 枚紹介します。 マイルス・デイビス『The Complete Birth of the Cool』が2枚組アナログ盤で発売 ジャズの名盤   ✡    ✡    ✡マイルス・デイヴィスについての記事の最後としてと、赤大文字にしました^^■ちょうど、マイルスの映画〈Miles Ahead〉「マイルス・ディヴィスー空白の5年間」も上映されているようですので、いいタイミングになりました。⇒ マイルスについては過去に4記事を書いていましたが、このエレクトリック期が残っていたのです。(私にとっては最も書きにくい時期でした)エレクトリック期からContents ●正直に書きますが、ジャズという音楽が好きな者として、電化してロックリズムになったマイルスは「もうジャズではない」と長い間拒絶していました。しかし、今はと言ってもかっての私のように、受け入れられないままのジャズ・ファンの方もいらっしゃるでしょうから、まず騙されたと思ってこれをカッコいいと思わなかったら・・・そこで読むのを止めてもらって構いません。●アルバムは〈右SP:コブハムのドラム中央:マイケル・ヘンダーソンのエレベ!左SP:ジョン・マクラフリンのエレキギター!聴いて下さい。personnelMiles Davis-tprecorded in 1970/2/18なおこのアルバムは2曲収録で、2曲目は Benny Maupin-b.cl, Sonny Sharrock-el.g , Dave Holland-el.b, Jack DeJohnnette-ds  となります。ホランドとディジョネットの2曲目のほうがカッコいいと思う方も多いでしょう。ベスト5を選ぶにあたって私が聴いたCDを書きます。ーーーーーー前掲の中山康樹「マイルスを聴け!」Ver.7では473枚のアルバムが収録されています。このうち約350枚はエレクトリック期のものです。その大部分はブートレグCDです。私はブートレグは1枚も持っていません。全て正規盤です。350枚に対して私が聴いたものはごくわずかな数です。エレクトリック・マイルスを熱心に聴いてある方から見ると、全く物足りないものかもしれません。それでもマイルスの足跡はほぼ辿れると信じます。私の所持するエレクトリック・マイルス盤です。(9.Agharta (1975)*At Fillmore,Black Beauty, Live-Evil が無い!とか言わないでくださいね。さて、やっと発表です!●録音年が複数になっていることから分かるように、オムニバス的編集アルバムなのですが、通して聴いて全く違和感がない。●1曲目に置かれた〈He Loved Him Madly〉は同年(1974年)に死去したデューク・エリントンを追悼した曲なのですが、この一種異様な雰囲気はジャズとかのジャンルを超えて素晴らしい音楽です。●他の曲も聴きどころ満載です。 文/大門 炭MENU最初のチャンスが到来したのは18歳のとき(1944年)でした。当時の人気バンド「ビリー・エクスタイン楽団」がマイルスの地元を訪れた際、トランペット奏者の一人が病気で休場。その代役として急遽、マイルスが参加することになったのです。この楽団で彼は、当時のスーパースターとして知られていたアルト・サックス奏者、ニューヨークに進出したマイルスは、憧れていた1955年、マイルスは当時の名プレイヤーたちを誘ってこの「第一期クインテット」を結成した3年後、彼はアルトサックスのなかでも有名なのが、1964年に結成されたグループ。「そうした若手の能力を見抜き、伸ばす力は、のちのマイルス作品でも続きます。1960年代後半から70年代前半にかけては、ピアニストのジャズ、と一口に言ってもさまざまなスタイルがあります。1940〜50年代にかけて流行した「しかしゆったりと美しいメロディを表現したいマイルスにとって、ビバップは適したスタイルではありませんでした。自分に適したスタイルを模索するマイルスは、ビバップの命とも言えるコード進行を捨てることを決意。スケールと呼ばれる一定の音階(例えばドレミファソラシド)を使って自由にメロディ・ラインを奏でる「このモード・ジャズのスタイルで作られた最初のアルバムは『1960年代後半に入るとマイルスはその影響から、自分のバンドにもエレクトリック・ギター/ピアノ/ベースを取り入れるようになります。自身のトランペットにもワウ・ペダル(音色を加工する装置)を取り付けるなどして、ロックバンドさながらの音楽を作るようになりました。こうして、“世紀の問題作“と呼ばれる『ジャズ界のトップランナーとして、ビバップ〜モードへとシーンを導いてきたマイルスが、いきなりロックだ、ファンクだと言い始めたので、世のジャズ・ファン、そしてジャズ・ミュージシャンまでが「これはジャズだ!」「ジャズじゃない!」と喧々囂々、意見を二分して論争が巻き起こりました。1980年以降になると、マイルスはポップスに急接近していきます。ポップ・ミュージック界で人気を博す最晩年となる1991年には、当時世に広まりつつあったヒップホップの要素を取り入れ『マイルスは1964年の第二期クインテットの頃に(一部メンバーは異なるものの)初来日し、そのライブの様子は『マイルス・イン・トーキョー』というライブ・アルバムとなって残されています。初めて訪れた極東の地にもかかわらず、どの会場も満員で、毎回熱烈に歓迎してくれる日本のジャズ・ファンにとても驚いたということです。それからというもの、スタイルを変えて何度も来日をしています。その中でも1975年に大阪でおこなわれたライブは、昼公演の『アガルタ』、夜公演の『パンゲア』という2対のライブ・アルバムとして残され、当時の熱狂を今に伝えています。ライブ以外でのマイルスと日本の関わりで忘れてはならないのが、晩年のマイルスに対するタモリによるインタビューでしょう。これは当時(1985年)放送されていた「今夜は最高」というテレビ番組の中での一企画。自らもジャズ・トランぺッターで、マイルスに憧れていたというタモリは始終緊張しています。それでもマイルスへのプレゼントに食品サンプルを渡すあたり、さすがは日本を代表するコメディアンというところ。一方マイルスは、インタビュー中に絵を描いてタモリにプレゼントしています。マイルスのバンドで育った若手ミュージシャンたちは、リーダーの強烈な音楽性に刺激を受け、バンドを卒業すると次々に自分のリーダー・バンドを立ち上げ、ヒットを飛ばすようになります。一部例を挙げると、ウェイン・ショーターとジョー・ザヴィヌルの“ウェザー・リポート”、ハービー・ハンコックの“ヘッド・ハンターズ”、チック・コリアの“リターン・トゥ・フォーエバー”、キース・ジャレットとジャック・ディジョネットの“スタンダーズ・トリオ”、ジョン・マクラフリンの“マハヴィシュヌ・オーケストラ“など、枚挙に暇がありません。マイルスの死後も、彼の残した音楽的要素は、モード・ジャズ、エレクトリック、ロック、ファンクなどそれぞれがジャズのひとつのジャンルとして細分化されながら現代に引き継がれています。特にマイルスが最後に残した「ヒップホップとの融合」という要素は、ロバート・グラスパー(p)を中心とする若いミュージシャンが受け継ぎ、マイルスとは異なる手法で現在に花開かせています。ここまででわかるように、マイルスは現状に留まることなく常に変化を続けてきました。ビバップと呼ばれるジャズの標準的な演奏方法を脱し、より自由にアドリブを取ることのできる「モード・ジャズ」を完成させた功績は、ジャズのみならず周辺の音楽へも大きなインパクトを与えました。音楽のルールを打ち破る型破りな活動を貫き、生前・死後を問わず各方面に大きな影響を及ぼしていたことから、マイルスは今もなお「ジャズの帝王」と呼ばれているのです。マイルス・デイビス&ロバート・グラスパー『エヴリシングス・ビューティフル』レビュー